静かに波は引く

一昨日、仕事で市役所にいたときだった。

ふと終わりたい誘惑がわいてきた。

とても静かで、冷静な状態。

 

はたから見たら、私のその日の行動は前日とはなんら変わっていなかったと思う。

 

朝、定刻に起き、お弁当を作り、子どもを保育園に送り、仕事をし。

みんなが毎日を送るルーティンとさして変わらない日。

 

そんなときに「なんかさ~今日しにたいんだよね~」なんて、まわりが聞いたらギョッとするだろう。

 

人はいつか必ず死ぬ。それは一般に言われる平均寿命に比較して早いか遅いかの違い。

結果は同じなのだ。

だから私は特に死に対する恐怖感をもっていない。

死んだらどうなるんだろう、とかそんなことはどうでもいい。

実際身近な人が亡くなり、いつもだったら当然そこにいた人がいなくなってしまっても、私達の日常はなんら変化なく、世界はまわる。

 

私の生きる理由は子どもがいることへの責任感だ。

今はそれだけ。

これがなかったらもうとっくに人生終了していた気がする。

 

自分の子どもはかわいい。

人の子どももかわいい。

子どもはみんなかわいい。

無垢でまっすぐで、愛おしい。

見ていると、まぶしくて、うらやましく思う反面、これからたくさん勉強して、仕事して、苦労もして、大変なことが待っているのだな、と思うとかわいそうにもなってくる。

このかわいそうという思考自体がおそらく普通ではないのかもしれない。

子どもはキラキラした未来でいっぱいで、それを応援するのが親の役目でもあるだろうに、これから大変な未来で生きていかなければならない子供たちが不憫でしかたなく感じてしまう。

これは36年間生きてきた私の人生で、つちかわれてしまった感覚だ。

勉強もスポーツもそこそこできた。世間ではいい大学と言われている大学を卒業し、国家資格もとった。

はたからみたら十分に見えるかもしれないが、私は自分に対する誇りというものが全くない。

自己肯定感が異常に低いのだ。

何をやっても満足感がなく、趣味に没頭しているときはいい、けれどもいつも最後はむなしくなってしまう。

 

以前、上の子がまだ2歳くらいのとき、ママ友に「これからの目標が全くない」と言ったことがある。そのときの私は結婚もした、子どもも無事産んだ、資格もとった、仕事もしてる、次にいったい何をしたらいいのか。全くわからなくなっていた。

ママ友はギョッとしていたが、「小さい目標でもいいんじゃない?それこそ海外旅行へ行くとか」。そして私はそれを即実行した。がやはりもの足りない。

 

私はいったい何を求めているのだろう。何をしたいのだろう。

 

私のしている仕事は一応難関資格を必要としているため、みんなこの仕事でやっていきたい!という大きな目標とともに試験をパスし、同業者はこの仕事に誇りを持っている。

以前異業種交流の際、「なぜこの資格をとったのですか?」と聞かれて、なにも答えられなかった。「なんとなく資格がほしかったから」とのど元まで出かかったが、押さえた。みんな大義名分をもって堂々と仕事している。

 

そう、仕事はやりがいがある。

幸いサラリーマンではないので、理不尽な上司もいなければ時間もわりと自由だ。

何が不満なのだろう。

いや、不満ではないあ。とにかく満足していないのだ。

私の本能的な満足感を満たす基準は高いのかもしれない。

イコール目標高く生きているのかもしれないが、それが自覚できていないから、よくわからない。

 

コメントでいただいた「今をどう生きるか、真剣に生きていくこと」。この真剣に生きていくことを私はできていない。

 

担当医が言っていた。

躁を経験すると、何をやるにも物足りなくなる、と。

 

と、考えをぐるぐるめぐらせていたら、一昨日からのあの不思議な念慮は消えていた。

 

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